この六十四卦、三百八十四爻の意味の変化さえも、容易に十分には呑み込めないのである。実は私が分かっているのは、その意味の九牛の一毛に過ぎないと言うべきである。六十四卦、三百八十四爻の意味を説いたのが、周易の経文と十翼と、即ち今の易経の本文であるが、それも実はその意味を残らず説いてあるというわけではなく、全体の意味の九牛の一毛と言うべきである。私は昔の聖人の書かれたものを軽んずるわけでは決してないが、いくら千言万語を費やしても、卦の意味や爻の意味を解き尽くすことは出来ないのであり、そこで聖人が見本のようなものを示して、それから先は推していくようにしてあるのである。易の辞はどうかこうか大体は我らにも分かるのであるが、それだけでは十分でないのであり、その外に無料無辺の意味があるのである。繋辞伝の中の孔子の言葉に、『書は言を尽くさず、言は意を尽くさず、然らば即ち聖人の意は終に見る可からざるか。聖人、象を立てて以て意を尽くし、卦を設けて情偽を尽くす』云々と言ってある。その意味は、書物はいくら書いても人の言葉を残らず言い尽くせるものではない。そこで聖人は算木をもって六十四卦を作り出して、それによってあらゆる意味をあらわし尽くしておられる、と言うのであり、算木で作られた六十四卦の形がもっとも大切なのである。それが十分に分かれば、文句はなくても良い位なものである。しかし一足飛びにそこに到達されるのではなく、まず経文の文句の意味を知り、それから漸次に研究して進んでいくべきである。そうしてまた、その文句が風の変わった文句であり、色々に解釈し得られる。儒者系統では、その文句を、主として国家の盛衰興亡や人生の人倫道徳などの義理の上から見て、解釈している。それから入っていくのが一番分かりやすいので、私も主としてそういう風にお話しするつもりであるが、しかしそれでは易の全体ではない。道教の人は、道教の修行、仙術の修行のようなものに、易の文句を当てがって解釈している。明の時代の天台宗の蕅益大師智旭という坊さんは、周易禅解を著して、天台宗の教理をもって易の文句を解釈している。そういう風にも読めるのである。その他あらゆる事に当てて読めるはずである。しかし私は色々な事を知らぬので、しばらく儒者の真似をして、国家の盛衰興亡、人間の生活情態の義理に当ててお話する考えである。それから先は、皆さんがしかるべく色々な事に当ててお考えなさるようでありたい。畢竟は文字の書いてない易経を読まなければならぬのである。
易では、宇宙間の天、地、人、万物のあらゆる変化を六十四卦に分けて見ている。その六十四卦はいかにして出来るかと言えば、畢竟、陽と陰との変化である。陰陽というと、大層古めかしい言葉であるが、新しく言えば、積極と消極とである。+と-とである。男性と女性とである。日なたと日かげとである。明と暗とである。充実と空虚とである。強と弱とである。進むと退くとである。動と静とである。剛と柔とである。その他にも類進して陽と陰とに分かつことが出来る。この陽と陰との二つは何から出てくるのかと言えば、それは太極から出てくるのである。太極が易の本体である。易がいまだ動かない前の本体である。太極というものは、大きく言えば、天地開闢以前から天地が滅亡してしまった後までも、厳然として存在しているところの宇宙の本体である。広大無辺なる宇宙の実体である。不生不滅無始無終の絶対唯一の大元気である。これが易の本体である。陽でもなく陰でもなく、積極でもなく消極でもなく、+でも無く-でも無く、善でもなく悪でもなく、有でもなく無でもなく、何物でもないのである。そうして非常に大きい者として見ることもできるが、易を小さい事物に当ててみると、太極をもっと小さい者として見ることもできるのである。例えば世界の人類の太極、日本民族の太極、一国の太極、一家の太極、自分一身の太極、あるいは何々会、何々団体の太極ということも考え得られるのであり、もっと言えば、草木禽獣虫魚の太極ということも考え得られるのであるが、しばらくある程度の大きい者として見ていくことにしよう。易の太極は極めて大きく、広大無辺なる者で、決して小さい者ではないという説もあろうけれども、大きい事実ばかりを見て、小さい事物を見ないのは、かえって易を小さくするのである。広大無辺なる宇宙から草木昆虫などにいたるまでに、易の理は備わっているはずである。これが易の本体であり、これからいろいろな変化が出てくるのである。これを『易に太極有り』というのである。
この太極なる者は、易の本体であり、大きく言えば宇宙の本体であり、小さく言えば、人類・禽獣・草木・その他あらゆる物の本体であるが、この本体なる太極は、天地の開闢以前から天地の滅亡の後まで、一瞬間もじっとしていることなく、時々刻々に霊妙に活動しているのである。それが活動すれば、すぐに陰陽の両儀(二つのかたち)が出てくるのである。すなわち積極と消極との二つが出てくるのである。陽と陰とは二つの別の物のように思われるが、実は二つの別の物ではなく、陽と陰と二つ同時に出てくるのである。陽と陰とは表と裏とのようなものである。もし一方に陽があらわれれば、他の一方には必ず陰が出来ているのである。一方に積極があれば、必ず他の一方に消極が出来ているのである。一方に+があれば、必ず他の一方に-が出来ているのである。例えば磁石の北極が出来れば同時に南極が出来る。北極は出来たけれども南極はいまだに出来ないということはない。一方に貰った人があれば、他の一方に与えた人が必ずある。貰った人はあるけれどめ与えた人はないということはない。一方に金持ちがあれば、他の一方に必ず貧乏人が出来ている。もし貧乏人がいなければ、金持ちもいないはずである。一方に善人があれば、必ず他の一方に悪人が出来ている。一方に左傾があれば、必ず他の一方に右傾がある。一方に遠心力があれば、必ず他の一方に求心力がある。すべて陽と陰、すなわち積極と消極、プラスとマイナス、金持ちと貧乏人、善人と悪人、両方の極端が同時に出来るのである。一方へ進むことは、他の一方からいえば退くことになる。小さい物では、どこに陽すなわち積極が出来、どこに陰すなわち消極が出来ているかという事が、すぐに分かるのであるが、大きい物になると、一方に積極の陽が出来ていることが分かっても、どこに消極の陰が出来ているかという事が、ちょっと分からぬことがあろうけれども、必ずどこかに出来ているのである。すなわち陰陽は太極の活動のあらゆるあらわれの裏と表とであって、大きい眼をあけて見れば、二つのものでは決してないのである。太極が動いて陰と陽とが出来ることを、『これ両儀を生ず』というのである。太極が活動しさえすれば、陽と陰とが同時に出来るのである。初めに陽が出来て、後に陰が出来るのではない。陽と陰とが同時に出来ることをよく理解することを要する。そうしないと易の思想は分からないのである。二つの物と見ては、おもしろくない。陰陽の二つも、非常に大きく、広大無辺なる者として見ることも出来、また小さい物事に当ててみることも出来るのであって、大は宇宙の活動から、小は人生の物事、草木禽獣、あらゆる物、あらゆる事、あらゆる現象は、皆、陰陽の二つに分けて見ることが出来るのである。積極と消極とに分けて見ることが出来るのである。そうして太極が活動して陰陽の働きとなると、太極は無くなってしまうかというと、決してそうではなく、陰陽がそのまま太極なのであり、太極の動きがそのまま陰陽なのである。昔の例えの、水の外に波があるのではなく、波の外に水があるのではないようなものである。陰陽の外に太極はなく、太極の外に陰陽はないのである。易には陽と陰の二つを立てているので、あるいは易は二元論であるとう説を立てている学者もあるけれども、そうではなく、実は一元論である。陰陽は二つのように見えるけれども、実は二つではなく、太極の動きのあらわれの裏表であり、易は太極を本体とするところの一元論である。陰陽二元論と見ては、切れ切れになってしまって本当の易は分からないのである。
